2012年8月19日日曜日

小林尚礼『梅里雪山 十七人の友を探して』

少し前、那智の滝でクライミングをしていた人たちのことがニュースになりました。
普段テレビのない生活をしていて、新聞やインターネットでこのニュースを見かけただけなのですが、なんとなく気になったままです。

直球で例えるなら、富士山に登るということとどう違うのかしら?

富士山はご神体ではないから? ではご神体って何でしょう。ちょっとこの辺りのことがおおざっぱに、でも少々荒っぽく、有無を言わせないような雰囲気にされているのが私はいつも気になります。スピリチュアル、という言葉が、言葉だけ独り歩きしているところに抵抗を感じるのと同様な。

見上げる高峰や畏怖を抱かせる滝があり、暮らしと信仰が密接だった頃の話のみではなく、私も山に囲まれて育ち、山や川が近くにあり作物の恵みと雷の恐怖を身体でおぼえていきました。
この「見上げればお山」という根本的な感覚を得る機会が少なくなっているところに、本当の問題はあるような気がします。「ご神体」というよく分からない言葉だけが独り歩きしてしまう。

自然としての神々と、人の挑戦について書かれた本として、この本をあげたいと思います。

小林尚礼『梅里雪山 十七人の友を探して』(ヤマケイ文庫、2010年)

1991年に中国雲南省の梅里雪山の初登頂を目指した日中登山隊の17名が遭難するという事故がありました。前半は遭難報告と再登頂を目指した登山家としての記録ですが、後半、遺体の捜索のためこの地域を単独で訪れるうちに、自分たちが登頂にのみ固執していた梅里雪山が「カワカブ」として長い長い間敬われていたチベット信仰の山であることを知っていきます。著者自身、カワカブのぐるりを回る巡礼の道を歩き、最初のうちは別の登攀ルートをさがしたりもしますが、それも次第にカワカブの「登山」から「巡礼」へと変化します。

「去年の遺体捜索のとき、最後までキャンプ地のゴミ拾いをしていただろ。だからお前を信用する。」―悪意をもたれ続けてきたカワカブの麓の村の村長と著者が交わした言葉から、著者のカワカブとチベット文化を巡る旅は始まりました。



この本を私がはじめて手にしたのは、アラスカのシトカにある小さなB&Bです。この本の中にも書かれていますが、著者は遭難事故後会社に就職したものの、一人の写真家の著作と出会い、表現する手段として写真を選んだとのこと。『梅里雪山』が単行本として出版された年、著者はその写真家が愛したアラスカのシトカを訪ねていたのでした。「カワカブ」のサインが入った本が、その小さなB&Bの書架にそっと収まっています。